これからを生きる人たちへ、未来へとつながる学び その2 次世代のエネルギー


前回のブログでは、我々の生活と密接な関係にある食について、現在起きている問題とそれに対する解決策として進んでいる研究を取り上げた。

今回のブログではエネルギーについて考えていきたい。再生可能エネルギーやゼロ炭素化社会、水素電池などエネルギー関連のトピックを巡る議論は足元非常に活発だ。

エネルギーもまた、我々の生活になくてはならないものとなっている。これからのエネルギーのあり方を考えていこう。

再生可能エネルギーは本当に今後広まるのか

ゼロ炭素化社会の実現に向けて、化石燃料の時代が終わり、今後は再生可能エネルギーが世界を席巻する、そんな話がちらほら聞こえてくる。2030年には炭素排出実質ゼロなどよくわかんないけど、いろいろ取り組まれているんだな~と報道等を見聞きして何となく知っている人も多いだろう。

しかし、こちらも正直物事の進展は僕が中学・高校生だった時からあまり進展しているとは言えない。もちろん15年ほど前の当時と比べたら、発電効率が上がり、発電コストだけをみると化石燃料よりも安価になっていたりもする。ただし、再生可能エネルギー最大の問題はその供給の安定性である。こちらに関してはいまだ解決がみられていない。

再生可能エネルギーというと太陽光発電や風力発電などを思い浮かべるだろう。これらの自然エネルギーはいわば無料で無尽蔵に提供されるものなので、これらを用いて電気エネルギーへと変換することができれば、最高の持続可能な社会の実現が可能になる。

では、例えば太陽光発電と風力発電だけで世の中が成り立つだろうか。最近がまさしくそうだが、もし長期間晴天に恵まれなかったらどうなるだろうか。風力発電で期待されているだけの発電量を得られるほどの風が吹かなかったらどうなるだろうか。もしくは猛暑が続き、普段よりもエアコンを使う人が爆発的に増えたらどうか。

再生可能エネルギーだけでは賄えなくなってしまったら、極端な話停電してしまう。道路の信号機も病院の医療機器も、電車の運行も、株式市場の取引システムも使えなくなってしまう。このような社会インフラが機能不全に陥ってしまったら私たちの生活が成り立たなくなってしまう。すみません、最近天気が悪くて十分な電気が賄えないので、しばらく真っ暗な中で過ごしてください、というわけにはいかない。

また、発電(供給)が少ない中で、需要が急増した場合、電気代が跳ね上がる。すみません、最近全然風が吹かなくて、発電できないので、電気代が先月の3倍になります。来月のことは来月になってみないと思いません。こんなことを受け入れられる人はいないだろう。

結局のところ、「無料」で「無尽蔵」にある自然エネルギーだが、提供してくれるかどうかは文字通り自然頼みになってしまうため、安定感に欠けてしまう。需要を調整できる(利用するのを我慢できる)モノやサービスなら良いが、電力消費を我慢することはできない。そうなると結局何かほかのエネルギー源のバックアップが必要となる。このバックアップをするのは何かといわれれば、結局化石燃料による発電に頼るしかないのだ。今や気候変動問題の戦犯として嫌われている化石燃料だが、結局化石燃料なくして私たちの生活は成り立たないのだ。

安易な再生可能エネルギー議論から脱却する

では、再生可能エネルギーが役に立たないかといえば、当然そうではなく、今後化石燃料による発電技術と再生可能エネルギーによる発電技術のどちらの研究、そしてニーズがあるかといわれれば間違いなく後者である。供給の安定性に問題があるというのであれば、安定供給を可能とする方法を探すことだ。

一つ考えられるのは蓄電技術の研究だ。発電の問題は発電したものはすぐに利用者に送り(送電)そこで利用者に配分(配電)される必要があることだ。利用しない分はどんどんなくなってしまって、溜めることができない。

流しそうめんを思い浮かべてほしい。誰かが川上でそうめんを作ってくれる(発電)。作られたそうめんは竹筒から流れてくる(送電)、私たちはそれをお箸ですくって食べる(配電、利用)。しかし、とめどなく流れてくるそうめんをずっと受け止めることはできないし、だんだんお腹も一杯になってくる。今のままではすくえなかったそうめんはそのまま排水溝まで行って、ごみとなってしまう。

このように発電→送電→配電の流れで、利用できなかった電気はすべて無駄になってしまうのだ。これは化石燃料による発電でも同様だ。

ではどうするかというと、この使わなかった分をどこかに溜めることができればよい(蓄電)。竹筒の末端に桶を用意して、そこにそうめんが溜まり、排水溝に流れ落ちないようにすれば、今食べられなかったそうめんは、あとでまたお腹が空いたときに食べれることができる。

電気も同様に、発電したけど使わなかった電気を後で必要になったときに使えるようになったら安定供給が実現できる。

大きな電池を作るような発想だ。

なんだ、電池ならすでにあるじゃん。考えてみたらスマホの充電器だって、家で充電して学校に行って、携帯の電池が切れそうになったら充電してるんだし、すでにある技術で何ら新しいものはない、と思われるかもしれない。

実際その通りで、例えば病院やタワマンなんかには自家発電機のほか、蓄電装置が備わっているところも増えてきた。

しかし、まだ大きくても建物単位の蓄電装置に留まっており、これが自治体、地域レベルとなると話がなかなか難しくなる。さすがに規模が大きすぎて、そこまでの蓄電装置というのはまだまだ実用化されていない。

再生可能エネルギーというと太陽光、風力、地熱、波力、バイオマス、いろいろな「発電方法」に関する議論ばかりされる。もちろn発電も大事だが、今もっと重要なのは蓄電だ。蓄電に関する研究は今後も活発に行われると思うし、実用化につながれば社会的インパクトもめちゃくちゃでかい。

個人的に注目している発電方法:排泄物発電

再生可能エネルギーの弱点は安定供給が(少なくとも現在は)できないことであると述べた。安定供給を可能にする方法として蓄電技術の向上を先ほどお伝えした。

しかし、何も安定供給の方法は蓄電だけではない。発想を逆転させて考えよう。既存の再生可能エネルギーが安定供給に不向きなら、安定供給できる再生可能エネルギーを考えればよい。

安定供給できる再生可能エネルギーとして注目されているのが動物の排泄物だ。特に馬糞なんか最高だ。具体的には動物の排泄物からメタンガスを発生させ、それを発電に活かす。このように考えれば排泄物発電はバイオマス発電の一種と考えることができる。

排泄物なんて何の価値もない、なんなら触りたくもないし、見たくもないし、考えたくもない。しかし、そこから僕たちの生活に欠かせない電気が生まれる。いらないモノがいるモノへと変わる。こんなにロマンのあることがほかにあるだろうか。今から再就活できるなら、是非とも排泄物発電装置の普及にキャリアを捧げたいくらいだ。

僕は別に夢物語を話しているのではなく、実際に馬糞発電は実用化されている。その一つとしてフィンランドでの実例を取り上げた動画をブログの最後に貼っておくのでぜひ見てほしい。英語の動画だが、2分程度の簡単な動画だ。

なんだ、結局海外の事例しかないんじゃないかと思われては困る。こちらをみればご覧いただける通り、日本でも実際に有効な発電方法として実用化されている。

もちろん、このような排泄物発電にも問題がある。今はまだ広く実用化させるにはコストがかかりすぎる(やっても割に合わない)のと、発電装置のところまで排泄物を運ぶのがだるい(排泄物の効率的な収集方法が確立されていない)という問題が解決されていない。自然に優しい排泄物発電のために、何十キロもガソリン・トラックで集めていては、自然に優しいのかどうか実に微妙だ。

このように、排泄物発電はまだまだ改善の余地が非常にあるのだ。前回のブログで家畜について触れ、食料供給において考えると、家畜の生育はコスパが非常に悪いという話をした。確かに飼育にはコストがかかるが、彼らの排泄物を発電して少しでも環境負荷の軽減に役立てることができるのであれば、家畜生育のコスパ向上(売電や自家発電による生育コストの削減)につながるかもしれない。一つの問題が別の解決策の糸口になるかもしれない。こうやって点と点を結んでいくと、考えるだけでワクワクしてこないだろうか。

決して理系だけの特権ではない

ここまで読んできて、「話しは面白いけど結局どれも理系の分野じゃん。文系の自分にできることなんて何もないよ」と思う人もいるかもしれない。確かに新技術の研究や開発においては理系の知識が必要不可欠だ。しかし、文系だってどのような制度設計をすればこのような開発が進むだろうか、今開発や実用化を阻んでいる規制は何だろうか、どのような電気料金の決定方法があれば、電気料金の急騰を防げるだろうか、蓄電した電気を上手に配分できる方法はないだろうか、このようなことは何も理系科目長けていなくても考えることができる。

そもそも文系・理系のくくりなんて受験の際に「一時的に」設けたくだらない区切りにすぎない。そんなものに囚われて自分の進路や可能性を狭める必要なんてない。これからも特に学際的(2つ以上の学術領域にまたがる/関連する)な研究が進むと思う。自分は文系だからこういう技術的な話はできなくて~とか、再生可能エネルギーだのバイオマス発電だのちんぷんかんぷんで~なんて言い訳している暇があったら、自分なりに制度や原理を知って、理系と渡り合えばいいじゃないか。僕も経済学部出身なので文系だが、こういう話を調べるのも、自分なりに考えるのも、人に紹介するのも大好きだ(ちなみにちゃんと(理論)経済学を学んだ、学んでいる人ならわかると思うが、本来経済学はめちゃくちゃ理系だ。アメリカでは経済学部=数学出来る人が行くところという認識だ)。文系が何言ってんの?なんて思われてるかもしれないが、そんな声は気にする必要もない。

僕は文系だから、、できなくてもいい、やらなくてもいい、知らなくてもいい。

そんな風に自分で自分の可能性を狭めたり、閉じたりする必要はない。経済学部の人だって農学部の授業に潜ったって良いし、工学部の教授に質問に行ったって良い。

話しが本筋からずれてしまうが、最後にもう一度言いたい。文系だの理系だのなんてお役所の偉い人が勝手に設けた区切りにすぎない。文系の人がめちゃくちゃ数学が出来ちゃダメなルールなんてないし、理系の人が文学を楽しんじゃいけない決まりなんてない。

自分の可能性を信じて突き進むのが君たち学生の特権であり、務めだ。つまらない大人に自分の進路を決めさせてはいけない。

ということでエネルギーの議論から僕の(エネルギッシュな)思いの話に変わってしまったが、エネルギーを巡る研究や議論、問題点、可能性はどれも調べれば調べるほどワクワクさせてくれる。面白いと感じた人はぜひ自分なりにどんどん探求してほしいテーマだ。

これまでは食、エネルギーという僕たちの生活に必要不可欠なものを取り上げて話してきた。次回は逆に私たちの生活から不必要なものとして出てくる、「ごみ」に関するテーマについて話したいと思う。

フィンランドでの馬糞発電の事例紹介動画

 


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