前回のブログからまた日があいてしまって申し訳ないです。本業がまあまあ忙しかったことに加えて、体調不良が続きブログから遠ざかっておりました。最近やっと体調が回復基調に入ったような気がします。
皆さんもお体ご自愛下さい。
さて、そういうわけで、体調が万全ではなかった中、最近大学での講義の機会がありました。と言っても、今回はオンライン講義でのゲスト・スピーカーであることに加えて、私ではなくほかの社員が講義をしたわけなのですが、学生さんからは非常に示唆に富む質問を多く受け、個人的には実務者として、大学の講義に参加する意義を多々感じるものとなりました。講義の最後に質疑応答があったのですが、その質問をみていると、就職活動と投資の共通点と呼べるものを発見したので、本日はそんな話をしたいと思います。
講義内容というか、講義中に扱った投資テーマについては、またの機会に詳細をお伝えするとして、投資テーマ関連以外の質疑応答で、質問が多かったのは、「○○するには、××したほうがいいですか?」というものだ。
例えば、
アセットマネジメント(アセマネ)業界に入るには、数学ができたほうが良いですか?
外資系に入るには英語はどの程度できたほうが有利ですか?
アセマネ業界に入るには学生時代から投資を経験していたほうが良いですか?
投資において、損切りは重要ですか?
などなど、多くの学生さんが「○○するには、××したほうがいいですか?」という質問をしていた。おそらく、みんな就職活動を通じた企業分析や投資について学んでいる中で、「××したほうが良い」というような知識を得て、実際にそうなのか実務者に聞いてみたかったのではないかと思う。
それはそれで非常に良いことだし、よく聞かれた上記の質問に関してはこのブログでも答えるが、「○○するには、××したほうがいいですか?」という疑問に対する回答を得た瞬間に、その回答(正解)は価値を失い、陳腐化してしまうように思う。
例えば、アセットマネジメント(アセマネ)業界に入るには、数学ができたほうが良いですか?」という質問に対して、「はい、数学は非常に重要です。文系だろうが理系だろうが、統計学、解析学、マクロ経済、ミクロ経済は理解してください」と答えたとする。
そうすると、多くの学生(アセマネ志望者)が統計学、解析学、マクロ経済、ミクロ経済は理解する。そうすると、新卒市場(就職活動)において統計学、解析学、マクロ経済、ミクロ経済は理解している学生が多く存在することになり、結果として統計学、解析学、マクロ経済、ミクロ経済は理解していることの希少性が失われて、せっかく努力して得た統計学、解析学、マクロ経済、ミクロ経済に対する理解がそれほどの価値を持たなくなってしまい、最終的に「アセマネ業界に入るにはXXができたほうがいいですか?」という別の「XX」を求めることになってしまう。そして、そのXXもまた、回答を得た瞬間から価値を失う・・・
というように、答えを得たはずなのに、その答えが意味をなさなくなるというスパイラルが続く。これは決してたとえ話ではなく実際に就職活動で起きていることではないだろうか。
私が就職活動をしていた2010年前半(私は2013年卒)のころは、今ほどインターンというものが身近なものではなく、主に外資系と一部の日系企業がひっそりとやっているものくらいなものだった。そのため、インターンに行ける学生は非常に少なかったし、選ばれた学生は希少性があって、「インターン採用」なんて言葉があるほど、インターンから内定までを直結させて青田刈りする企業もあった。
それが今ではどうだろうか。政府からの要請もあり、どの企業もこぞってやたらめったら、インターン、インターン言い出している。しかもやっていることは私が就活生だったころの「合同説明会」であり、半日ほど大会議室に缶詰めにして会社概要・事業内容を説明しているのが大半だ。実際に社員と机を並べて、業務の様子をみたり触れたり、ディスカッションをしたりというような本来の「インターン」からはかけ離れてしまっている。
それで本選考でどの学生も夏休みにたくさん「インターンしました!」と胸を張っていったところで、やったことは企業・事業説明を受けただけ、申し訳程度にインターン生間で数時間グループ・ディスカッションをしたというレベルだ。
まさに、「インターン」、「インターン経験」が陳腐化してしまった結果だ。これは学生というよりも企業のほうに責任があることだが。
ボランティアについても同じことが言える。私が学生だった頃に東日本大震災が発生した。私のようなお気楽者はなんだか大変なことになったなーとテレビの前でぼーっとしていただけであるが、東北地方出身者を中心に、「自分たちにできることはないのか?」と考えて、夏休みなどに東北に行って、津波で流れ込んだ土砂の除去だったり、倒壊した家屋の片づけの手伝いだったりをしていた。別に「ボランティア」なんて銘打っていたわけではなく、「自主的に自分たちにできることはないのか?」と考えて、大学の教授・職員などを巻き込んで行動に移している学生たちがいた。私は傍から見ていただけだが。
それが今では、こちらもやたらと「ボランティアしました」とアピールする学生が増えているように思う。「なにか自分にできる地域・社会貢献をしたいから、ボランティアをする」のではなく、「なんかよくわかんないけど、ボランティアしましたっていうと企業のウケが良いから、ボランティアしました」というだけの学生が多い。だから、別に思い入れもないし、ボランティアをやったという事実以外に得たものもない。
決して自分の時代を美化する気は全くなく、私の時代もこういう「大志なき活動」はかなり横行していた。「大志なき活動」の種類が代わったというだけである。
私の時代はとにかく「TOEICで良い点を取ること」が大志なき行動として広まっていた。正直そこそこの学力さえあれば、(少なくとも当時は)TOEICで900点超えするのは難しいことではなかった。だから、別に留学経験もないし、なんなら、海外で働きたいわけでも、英語を使う仕事に就きたいわけでもない学生でもこぞってTOEICを受けまくって、高得点を取り、就活活動に臨んでアピールしていた。そして、出来上がったのが「TOEICの点は高いけど、別に英語が話せるわけではない新人」、「TOEICの点は高いけど、別に海外勤務したいわけではない、なんなら地方勤務さえしたくない東京大好き新人」である。
このように「TOEICで良い点を取ること」が本来の「高い英語力の証明書」から「就職活動における免許証」レベルに陳腐化してしまった。
TOEICが新傾向(難化)になったのが2016年、旧TOEICから現在のTOEIC Reading&Listeningに名称が変更され、TOEIC Speaking&Writingの存在が強調され、4技能すべての技能を測るものとアピールしなおしたのも同時期だ。TOEICの陳腐化がTOEICの格を貶め、それへの対策として、TOEICが難化したのは決して偶然ではないと個人的には思う。
TOEICにせよ、インターンやボランティアにせよ、おいしい果実を得られるのは初期に動いた学生であり、その初期に動いた学生は決して「就職活動で有利だから」動いたのではなく、「やってみたい」「やる必要がある」と思った、つまり「大志に突き動かされたからやった」のである。二番煎じ以降の「大志なき学生」は費やした時間ほどリターンを得られなかったことだろう。
ここまでで、だいぶ長くなったので、いったん切ります。
次回は同じテーマに沿った中で、「投資リターンと群衆行動」について考察します。