やっと本業のほうが少し落ち着いてきて、週末も祝日もちゃんと休めるようになってきた今日この頃です。例年ですとこの辺から年末にかけて閑散期(当社比)となってきますので、有給の消化期間となるのですが、どうなることやら。
最近また大学(生)と絡む機会が増えてきまして、来月か再来月に東京大学公共政策大学院様にて講義を行う予定ができたり、来年度も同大学院様で講義の機会をいただけたりするなど、少しずつですが着実にアカデミックと関わりが深まっており、嬉しいことこの上なしです。
さて、大学生との絡みということで、春ごろに受験インタビューにご協力いただいた方と先日改めてお会いする機会を設けていただきました。そこで追跡取材という感じで、入学時点での自分と、半年が経った今の自分の心境の違い、考え方の変化などをいろいろ話しました。そこで感じたのは、「無気力の重力」が如何に強いかということである。
今回はこの「無気力の重力」、そして「その正体」について書いていきたいと思います。
5月病とは正確には5月から病
大学に入ってからいわゆる5月病にかかる学生は多く存在する。というか多く存在するからこそ「5月病」なんて呼び名が付いている。
5月病というのをググると、その意味として、下記のような説明がされる。
「5月の連休後に、学校や会社に行きたくない、なんとなく体調が悪い、授業や仕事に集中できないなどの状態を総称して「五月病」と呼びます。 初期症状としては、やる気が出ない、食欲が落ちる、眠れなくなるなどが挙げられます。 これらの症状をきっかけとして、徐々に体調が悪くなり、欠席や欠勤が続くことがあります」
ここにある通り、5月病というのは決して、5月にだけかかるものではなく、正確には5月頃からかかる病だというべきものだ。「病(やまい)」といっても、医者に診断される病気というよりも、自己診断で何となく、やる気が出ない、元気がない、何にも意欲的になれない、というような症状が出てしまうのではないかと思う。多くの学生がこのような症状に陥ってしまうのは私自身周りの友人をみていて気付いた。
慶應用語(塾語):4月病
母校の慶應大学には、独自の専門用語(一般的な言葉ではないが、慶應の中で通じる言葉のようなもの、「塾語」と呼ばれる)に「4月病」なるものがある。4月病もまた、ググると意味が出てくるのだが、下のような意味らしい。
「大学で勉強を頑張ったりサークルを楽しんだりしようと、やる気に満ち溢れている状態。」
そう、4月病とは5月病の反対で、何もかもがやる気に溢れ、活発に動こうとする意欲の高い状況のことを呼んでいる。
ちなみに僕は年中4月病状態だったので、とにかく授業は受けまくったし、卒業単位だとか、進級要件だとか関係なく、単位を取りまくっていた。別にまじめだねとか、ちゃんとしてるね、だとか言われたいのではなく、単純に僕はそれくらい大学での勉強が何もかも楽しかったのだ。なので5月病にかかってしまう人たちの気持ちがいまいちわからない。
だが、今回久しぶりに学生たちに会って、5月病の正体、そしてその原因が見えてきた気がする。
無気力の重力の強さ
5月病とは突き詰めれば、何事にも無気力な状態のことのだと思う。これを読んでいる学生の中にももしかしたらこういう状態に陥っている人も多いかもしれない。
とにかく何もしたくない。なにかをしなくてはいけないことはわかっているが、重い腰が上がらない。最初の1歩が踏み出せない。踏み出せばその勢いで2歩目、3歩目と歩き出せる気がするのに、最初の1歩がとにかく重い。踏み出せない。踏み出す前にまた体全体が重くなって押しつぶされてしまう。「無気力」の重力というものが如何に重いかということだ。足を上げようとすると強力な重力によって、体が動かない。そのうち足を上げようとする作業そのものに疲れてしまい、とりあえず、今日はここまでにしよう。頑張った。明日またやればいいや、となってしまう。
そんな風にして一日一日を過ごしている状態なのではないだろうか。一日が一週間となり、一カ月となり、一学期となり、一年となり、と時間だけは刻一刻と過ぎていく。ゴロゴロしたままの自分の隣を颯爽と友達が走りすぎていく。なんで、あいつはあんなにいつもはきはきしてるんだろう。なんであんな元気なんだろう。なんて思いながらやっぱり今日も横になって一日を過ごす。そしてあっという間に大学卒業、明日から無事無気力サラリーマンの仲間入りだ。
久しぶりにインタビューをした学生たちも漏れなく無気力な重力に襲われていた。口をそろえて、このままではいけない。入学式の日に、インタビューを受けていた時に思い描いていたようなキャンパス・ライフを自分は全然送れていない。なのに、何かを言い訳にして毎日をただ漠然と過ごしてしまっている。そんな状態のなかで、もがき、苦しんでいるように感じた。決してぼーっと一日を過ごすことを良しとはしていない。共通して「このままではいけない」という気持ちがある。でもやっぱり体が動かない。そんな状態だ。
「無気力の重力」の正体、それは「目標の喪失」
なぜ、難関大学合格のために血のにじむような努力をしてきた彼らが、無気力の重力に襲われるのか。無気力の重力の正体は何なのか。それは目標の喪失である。これまで彼らは文字通り志望校合格のためにすべてを犠牲にし、寝食以外の時間を勉強に注ぎ込んできた。合格できるかどうかへの不安、思うように成績が伸びないことへの不満、本番どんな問題が出るんだろうという恐怖心、極度の緊張状態のまま、彼らは1年間を過ごしてきたのだ。
それが今はどうだろうか。もはや勉強しろなんて誰にも言われない。周りの友達もろくに勉強なんかしていない。目標は達成してしまった。あれだけ燃え上がるような情熱を注いでいたものが突然目の前からなくなってしまった。自分はこれから何のために努力をすればいいのだろうか。そんな感覚なのではないだろうか。
戦場に戻るか、平和に生きるか
目標を持てよ!熱く生きろよ!と僕は声を大にして言いたいが、今はもうそんな世の中じゃないのも理解している。頑張りズムの押し付けは良くない。
別に無気力に生きるのも悪いことではない。無気力というから聞こえが悪いが、ぼーっと生きられることもまた学生の特権だ。かっこよく言えば「モラトリアム」というものだ。そのまま大学時代を過ごし、社会人になるのがおそらく大勢だ。8割の学生はそうやって卒業後は毎日満員電車に揺られる生活を送ることになる。何度も言うが、それが悪いとは言わない。
だが、僕は古臭い老害意見をここで吐かせてもらう。
受験勉強を頑張り抜いた君たちはもう頑張り続けることでしか輝けない。極限の緊張状態を体験してしまった君たちが、生きてるって実感できる場所はもう戦場しかないのだ。今のままぼーっと平和に過ごすのも一興。だが、今のままじゃ嫌だなと思っているのなら、戦場へと戻ろう。高い目標を掲げ、激戦地で生きるか死ぬかという緊張状態でいることに喜びを見出すはずだ。
志望校に合格したのであれば次は主席卒業を目指してみたらどうだろか。もしくは難関資格を取得のために勉強をしてみるのも良い。思い切って友達となにか新しいことを興してみるのも良いだろう。新しいサークルを作る。やってみたかったことに挑戦する。なんでも良い、とにかく目標を定めて、それに向かって全力疾走するという体験をまたしてみよう。緊張と不安で夜も眠れない、ご飯も食べられない、吐き気がする、くらくらする、そういう体験を超えた時の達成感を知っている君たちであれば、そんな状態でさえ、楽しむことができるはずだ。
たとえが悪かったかもしれない。いつものブログのトーンとも違う。でも、もう一度言う。激戦を潜り抜けてきた君たちが、今平和な生活に悶々としているのはストレスがないからだ。戦場に戻ろう。目標を掲げて、それに向かって努力をするということ。それこそが君が生きているって実感できる環境なのだ。